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萩原朔太郎研究会の設立

 「朔太郎研究会」設立の議は一九六〇年前橋における「朔太郎祭」のとき地元側の声として発し、昨一九六三年「朔太郎忌」行事を機としてこれが具体化して、いちおう「朔太郎研究会」準備会として発足した。その目標は本年の「朔太郎忌」までにはこの会を正式に設立しようということであった。(中略)
 準備会は当初の目標の通り、本年の「朔太郎忌」記念行事を期し、準備活動を発展的に終結して、この「萩原朔太郎研究会」を設立しようとするものである。(後略)
   一九六四年五月十日
萩原朔太郎研究会会報』第1号 1964年8月1日発行

萩原朔太郎研究会
1964(昭和39)年5月10日設立
会長 伊藤信吉
常任幹事(東京) 那珂太郎
常任幹事(前橋) 渋谷国忠
特別会員
伊藤信吉 伊藤整 草野心平 蔵原伸二郎 斎藤総彦 阪本越郎 笹沢美明 神保光太郎 高橋元吉 田中克己 中野重治 西脇順三郎 萩原葉子

福永武彦 藤原定 村野四郎 結城昌治

発会当初の会員は83名。
慶光院芙沙子、豊田勇、久保忠夫などの他、谷沢永一の名もみえる。


 斎藤総彦は朔太郎が設立した上毛マンドリン倶楽部のメンバーで、1925(大正14)年2月の上京後、マンドリン倶楽部の事務の全権を委任する旨の手紙が会報第1号で紹介されている。
 詩人阪本越郎(1906-1969)は、永井荷風の従弟で高見順の異母兄としても知られるが、詩誌『四季』でのつきあいがあったようである。

萩原さんにはたいへんお世話になった。萩原さんと室生さんは『四季』の顧問格で、よく銀座の小さな料亭で編集の会合をした時一緒になった。終わると萩原さんが先頭で銀座の角のキリンビールビヤホールへ寄るのが常式だった。私は萩原さんを尊敬していたが、詩風が違うので、時々議論を吹っかけ、酒の上なので、或る時はケンカしそうになって三好さんに止められたこともあった。しかし萩原さんこそ真に詩人らしい詩人だと思っていた。……

( 阪本越郎 1906-1969 )
(1965年5月5日朔太郎忌での発言要旨)
萩原朔太郎研究会会報』第4号 1965年6月25日発行

 推理小説作家結城昌治の名があるのが異質な感じがするが、結城昌治は朔太郎の詩を愛読し、詩の習作をしていた頃もあったと朔太郎忌で思い出を語っている。『月に吠える』の中の詩「天上縊死」をタイトルにした短編も書いている。
 谷沢永一は朔太郎研究会発会当時は、関西大学文学部助教授。渋谷国忠館長の前橋市立図書館編で発会の年の1964年6月1日に『萩原朔太郎書誌』を発行しているが、会報2号(1964.11.15)の「資料センターからの御礼とお願い」によれば、書誌の増補または訂正について御教示を頂いた諸氏のなかに谷沢永一の名前があり、また「貴重資料の御寄贈がありました」と報告されている。