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渡邊 渡 詩集『東京』

世紀の朝はまだ遠く


熱いお茶を一杯だけ飲んで
私はまた冷たい寝床にはいつた。
――氷河の匂ひのする私の寝床だ。
私の生涯を通じて、
ところどころに、
この寂たる氷河の匂ひのする寝床があつた。


そして、そこに入れた足と下半身は曉まで冷たい。
かかる陰濕な寝床では、
思想も、若さも、情感も、すべて切なく氷つてしまふ。
こんな寝床で本を讀めば
頭の骨が生活、生活と唄ひだす。


私の頭は無數の歴史の年代で填められてゐるために、
痩せた肱に五分間も載せておくと
世紀前への悲しい逆行汽笛のやうに
ぶィーン、ぶィーンと泣き出す。


今宵切に
私の體は
汗と疲れと、寒冷と、孤獨な寂情で
浮洲のやうに寂れてゐる。


世紀の前線に立つて寂れ墜ちる無情なる生存を街頭に運んで
ひようひようたる十一月末の風に吹かせて、
酢漬のやうになつて街頭に捨てようか
ここで一度私は落葉のやうな死屍となつて街頭に横はり、
胸板の折れた悲しい空箱となつて
生活の廣場に横はり、
生存の根を海邊に向けて
清潔な夜明けを待たうか。

( 渡邊 渡 1899-1946 )

詩集『東京』 図書研究社 1943(昭和18)年1月30日発行

 詩集『東京』は冒頭に刊行委員として、野口米次郎、高村光太郎萩原朔太郎室生犀星金子光晴、大鹿卓*1、德田一穂、高見順中西悟堂福田正夫、野口雨情の名が記載されている。


渡邊は跋の最後にこう書いている。

 ただ一つ残念なのは私が詩を書き始めた最初の頃から、私を激励し私の詩を信じてくれた故萩原朔太郎*2にこの書を見て貰ふことができないといふ事だ。内容の良否に關はらず、それは人間の私として寂しい限りだ。
 この集を出版するにあたつて刊行委員となつて下さつた諸氏並に、いろいろ世話をやいてくれた親近の友人諸氏には茲に謹しんで御禮申し上げます。
 明日は、關東軍報道部の命令に依つて北の戦線に向つて東京を發つ事になつた。日本内地を離れるのは私にとつてはこれが始めてだが、生きてゐる事の意義を今日ほど強く感じた事はなかつた。
  昭和十七年七月九日
            東京を發つ前夜に
                  著 者

 

 「關東軍報道部の命令」というのは、「満州國文化工作の劈頭第一の具としてわれわれの日東人形劇団が指定されたのであった」と1943(昭和18)年10月20日発行の『國境の人形芝居--満ソ國境巡演記』で書いている。
著者紹介によれば

正則英語学校文学科早稲田大学脚本研究會に学ぶ。大正十三年より文筆活動に入る。曾て太平洋詩人協會を主宰す。現在「子供街」「童話学校」主宰。詩集「海の使者」「天上の砂」等多数あり。

とある。

渡邊 渡
明治三十二年(一八九九年)愛媛縣壬生川町に生れる。大正十五年東京にあって詩誌『太平洋詩人』を編集し、大正末期の新興詩壇をにぎわせた(編集には後の劇作家菊田一夫が協力し、萩原恭次郎岡本潤林芙美子北川冬彦草野心平尾形亀之助らが執筆し、アナキズム系詩人のよりどころとなった)が、それより前、房州の南端の海岸にあって、半ば行者のような生活をしながら、「海洋の精神とでも稱すべき種類の思惟體系を全國に説いて歩く事によつて一生を終えようと覺悟してゐた」ことがある。その頃の作品は『海の使者』『天上の砂』*3などにまとめられている。心境の變化によって上京後は市井に生活し、多少のダダと人生派的な情感とからなる作品を書いた。それらは『東京』に収められている。戦時中徴用されて外地にあった。昭和二十一年(一九四六年)没。

創元文庫 『日本詩人全集 第五巻 大正篇(3)』 創元社 1953(昭和28)年11月30日発行