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『震災殉難記』の発禁

 本誌九月臨時増刊『震災殉難記』が、安寧秩序を紊乱するものとして、発行即日発売禁止を命ぜられた。安寧秩序紊乱するものは果たして誰だ! 頭かくして尻かくさず、諸君--、支配階級のこの血迷へる反動政策の正體を、我々は、ハッキリと見極めやうではないか。

 『震災殉難記』は、同書の中でも断って置いた通り、震災直後、『種蒔き雑記』と題して、一度公刊したものである。その内容は震災のドサクサ紛れに、亀戸で××*1された平澤計七、川合義虎、鈴木直一、山岸實司、近藤廣造(ママ)*2、北島吉蔵、加藤高寿、吉村光治、佐藤欣治等九名の先駆労働者達の残虐な殉難の真相を髣髴たらしむる、所謂亀戸事件の記録で、材料は当時『種蒔く人』の同人であり、現に我が連盟員たる金子洋文が震火の余煙と灰燼の中を、東奔西走して蒐集したもので現に最近まで、発売頒布を続けて来たものである。

 それを、我が連盟の震災四周年記念出版として、題を改め、版を新にして、発行したものだ。最近の不当検閲の乱暴さに鑑み、その書名の如きも、出来るだけセンセーショナルな字句を避けるやうにして。発禁の理由など、何処を押せば飛び出して来るといふのだ。しかも、曾て一度『種蒔き雑記』と題して、検閲の関門をくぐり、堂々と公刊された『震災殉難記』は、残酷な発禁の刑を喰らつたのだ。安寧秩序を紊乱するといふ理由にならぬ理由に依って。

 古傷を曝かれるといふことは、痛いであらう。古傷を曝かれることは、現に行ひつつあることに対して、強烈な反射鏡をさし向けられるやうなものででもあるからだ。一切合切、彼等にとって、少しでも都合の悪いことは押しかくして置きたいであらう。しかも、いかに支配階級が摩訶不思議な魔術をもつてゐやうとも、あつた事実、行つた事実そのものを、抹殺し終ることは出来ないのだ!『震災殉難記』の発禁!
それにも拘らず、亀戸事件に対する全民衆の憤激は、更らにより新たにより猛烈に加はつて行くであらう。(山田)

『文藝戦線』第四巻第十号 文藝戦線社 1927(昭和2)年10月1日発行
  発行編輯兼印刷人 山田清三郎

 

 山田清三郎は、『種蒔き雑記』は「金子洋文が震火の余煙と灰燼の中を、東奔西走して蒐集したもの」とここでは書いているが、実際は総同盟より貸与された、布施辰治や山崎今朝弥ら自由法曹団の弁護士達が作成した「亀戸労働者殺害事件調書」を抜粋してまとめたものである。

小牧近江らの『種蒔く人』では、早くも十月一日に「帝都震災号外」を出した。これは、青年団その他の、朝鮮人にたいする悲しむべく憎悪すべき事実がなぜおこったのか、できるだけ冷静に考察し、抗議すべき目標を明らかに見きわめよ、と訴えた。亀戸事件の全貌がわかってくると、小牧や金子洋文らが、このままにしておいてはいけないと立ち上がった。総同盟にいって相談すると、「今のわれわれには、この事件を世に訴えることは無理だ。こういうときは文士の諸君に限る。たのむ」と、調査記録を貸してくれた。これをもとに金子が亀戸の殉難記をまとめて、翌年一月に『種蒔き雑記』を出した。金子は憤りをおさえて事実を簡潔に書いたが、そこには被害者たちの美しい人柄が浮き上がっていた。『種蒔き雑記』は、巻頭に「この雑記の転載をゆるす」と書いた。

今井清一『日本の歴史第23巻大正デモクラシー』 中央公論社 1966年

生田春月「哀歌」

 

今夜は幾日(いくか)、月は出ない、
空は冷光の星にかざられて
何事もなげに地を蔽ふ。

星よ、おまへはこの土地を見る、
痛み傷ついた大地を
裂けた地上を、
崩れ落ちた海を見る、
隆起した港を
失はれた都市を、
暗い灰燼の中によこたはる
死者の骨片を、その堆積を。

おお星よ、
おまへはそれを見て悲しむか
悲しみもなく、喜びもなく、
おまへは冷然としてそれを見てゐる。

だが、その地上の一角を
目にさだかならぬ壊滅を
ただ見てすぎるにも、人間は
心は重く重く沈んでくる、――
かうして大きな闇の中を
幾時間も幾時間もわたしはさまようた。

九段の坂の上から、悲しい心で
ずつと市街を見おろすと、
バラックはここかしこ
仄かな灯影(ほかげ)を見せてゐる、
いかばかりの嘆き
いかばかりの諦めが、
そこにその暗い提灯の火を見てゐるだらう。

疲れて、沈んで、
うちのめされた心もちで、
暗い路をかへらうとすると、
空はあやなくかきくもり
雨がはらはらと降つて來た。

十七夜、美しい月かげを見ず、
降るは雨、バラックの上に、
日本橋、京橋の死滅せる建物の上に、
ひと雨、ひと雨、寒くなつてゆく
秋の夜の雨が降りだした――
灰燼と、焦土との上に。

生田春月(1892-1930)
 『自然の恵み』 新潮社 1925(大正14)年5月

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萩原恭次郎 「南葛を唄ふ」

 

南葛を唄ふ


     --大震災の時×××で×られた同村のSに--*1


南葛の夜は燃える、焼土に、
焼土に立つた工場と光るトタン屋根とナマコ板の塀とゴミの流れ寄つてゐる川と、


煤と黒煙とぼいらあとを一つの夜に溶かして燃える。
帝都のただれた夜の灯を焼き返し燃える。


南葛の朝は未だ帝都の眠れるうちに目を醒す。
工場と住宅と道路と川と橋と地平の畑を明々と照す。


逞ましい犠牲者×人はその空に立ちて微笑み語る。
その一人 わが若きS!

 
   ★


村に停車場と工場と道路が一度に設かれ
新らしく町の心臓が動かふとした時
蟻のやうに四方から百姓着のおやぢと女と娘と青年がとりついた。


俺達は流れの勞働者や朝鮮人の男や女や子供と同じ部屋の中に寝ころんで
夜を煙草ふかし乍ら
焼けて叩かれてゐる鐵のやうに默つてゐて語り合つた。


美しい青春の田は目をつぶつてゐる間に堀られ
其所へトロツコのレールが突き通り
まなごの山が出來て行つた。
鐵板の上でセメントが砂と礫にガシガシまぜられ
眞つ黒氣のひつきりなしうなる機關車のドギつい煙が
黒い瓦斯のやうにそこら中におつかぶさつた。


女は工場 男は工事場 或ひは×線工夫
一日一日延びて線路も道も山の方へ頭をもたげて進んだ。
このドサクサの中で青春の肉は赤くびしびしと條ばつてふくれた。


××運動は地下的にのばされたが
鐵橋の上を五人も六人も並んで晴れた夜の星の下を歌を歌ひながら
あの急流の河瀬に和して市の×××につながれた。


目に見えない××がそこへ來た。
半×しの牛のやうに幾人の男や女が田甫や部屋や工事場でうなつて横つた。
仲間は四散した。
お前は村へ手を上げて別れ 南葛へ走つた。


   ★


南葛のドブの中を南葛のヒルのやうな××に血を吸はれたS!
赤い顔して虎のやうな血をもつてゐたS!
お前は南葛の友と南葛の土に埋つた。
そして南葛の晝と夜の鐵をも溶かす火の中に笑ひ乍ら語る。


 (お前は最早俺達だけの友ではない
  お前は世界の友で世界に語る。)


南葛の夜は燃える。音もなく強く、
帝都のただれた夜を焼き返し燃える、
南葛の朝は輝く、
昨夜の灰燼を照し新らしき萬象を黒々と照す。
そして南葛の雨は熱く 埋めてゐた土を次第に流すであらう。
一日 一日と……………………。


萩原恭次郎 1899-1938 )


『詩神』第六巻第五號 1930(昭和5)年5月1日発行

渡邊 渡 詩集『東京』

世紀の朝はまだ遠く


熱いお茶を一杯だけ飲んで
私はまた冷たい寝床にはいつた。
――氷河の匂ひのする私の寝床だ。
私の生涯を通じて、
ところどころに、
この寂たる氷河の匂ひのする寝床があつた。


そして、そこに入れた足と下半身は曉まで冷たい。
かかる陰濕な寝床では、
思想も、若さも、情感も、すべて切なく氷つてしまふ。
こんな寝床で本を讀めば
頭の骨が生活、生活と唄ひだす。


私の頭は無數の歴史の年代で填められてゐるために、
痩せた肱に五分間も載せておくと
世紀前への悲しい逆行汽笛のやうに
ぶィーン、ぶィーンと泣き出す。


今宵切に
私の體は
汗と疲れと、寒冷と、孤獨な寂情で
浮洲のやうに寂れてゐる。


世紀の前線に立つて寂れ墜ちる無情なる生存を街頭に運んで
ひようひようたる十一月末の風に吹かせて、
酢漬のやうになつて街頭に捨てようか
ここで一度私は落葉のやうな死屍となつて街頭に横はり、
胸板の折れた悲しい空箱となつて
生活の廣場に横はり、
生存の根を海邊に向けて
清潔な夜明けを待たうか。

( 渡邊 渡 1899-1946 )

詩集『東京』 図書研究社 1943(昭和18)年1月30日発行

 詩集『東京』は冒頭に刊行委員として、野口米次郎、高村光太郎萩原朔太郎室生犀星金子光晴、大鹿卓*1、德田一穂、高見順中西悟堂福田正夫、野口雨情の名が記載されている。


渡邊は跋の最後にこう書いている。

 ただ一つ残念なのは私が詩を書き始めた最初の頃から、私を激励し私の詩を信じてくれた故萩原朔太郎*2にこの書を見て貰ふことができないといふ事だ。内容の良否に關はらず、それは人間の私として寂しい限りだ。
 この集を出版するにあたつて刊行委員となつて下さつた諸氏並に、いろいろ世話をやいてくれた親近の友人諸氏には茲に謹しんで御禮申し上げます。
 明日は、關東軍報道部の命令に依つて北の戦線に向つて東京を發つ事になつた。日本内地を離れるのは私にとつてはこれが始めてだが、生きてゐる事の意義を今日ほど強く感じた事はなかつた。
  昭和十七年七月九日
            東京を發つ前夜に
                  著 者

 

 「關東軍報道部の命令」というのは、「満州國文化工作の劈頭第一の具としてわれわれの日東人形劇団が指定されたのであった」と1943(昭和18)年10月20日発行の『國境の人形芝居--満ソ國境巡演記』で書いている。
著者紹介によれば

正則英語学校文学科早稲田大学脚本研究會に学ぶ。大正十三年より文筆活動に入る。曾て太平洋詩人協會を主宰す。現在「子供街」「童話学校」主宰。詩集「海の使者」「天上の砂」等多数あり。

とある。

渡邊 渡
明治三十二年(一八九九年)愛媛縣壬生川町に生れる。大正十五年東京にあって詩誌『太平洋詩人』を編集し、大正末期の新興詩壇をにぎわせた(編集には後の劇作家菊田一夫が協力し、萩原恭次郎岡本潤林芙美子北川冬彦草野心平尾形亀之助らが執筆し、アナキズム系詩人のよりどころとなった)が、それより前、房州の南端の海岸にあって、半ば行者のような生活をしながら、「海洋の精神とでも稱すべき種類の思惟體系を全國に説いて歩く事によつて一生を終えようと覺悟してゐた」ことがある。その頃の作品は『海の使者』『天上の砂』*3などにまとめられている。心境の變化によって上京後は市井に生活し、多少のダダと人生派的な情感とからなる作品を書いた。それらは『東京』に収められている。戦時中徴用されて外地にあった。昭和二十一年(一九四六年)没。

創元文庫 『日本詩人全集 第五巻 大正篇(3)』 創元社 1953(昭和28)年11月30日発行