読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

「詩壇随感」

 四十歳にもなつて詩を作るとは、何といふ悲惨事だらう、と東郷青児君が言つた。全くである。(畫家はうまいことを言ふ。)詩を作るといふ衝動は、人生の最もやるせない、せつぱ詰つた精神の餓飢である。人が四十代にもなつて、未だ尚心の帰すべき家郷を知らず、少年のやうに感傷して詩を作るといふのは考へるだけでも傷々しいミゼラブルではないか。自ら顧みて暗然たるもの、あに僕一人のみの宿命ならんや。人生うたた蕭條、生理いづくんぞ説くを得んである。
 二十代の恋は幻想(ヴィジョン)である。三十代の恋は浮気である。人は四十歳に達して、始めて眞のプラトニックな恋愛を知る、と言つたゲーテの言葉はそつくりまた詩の方にも適用される。人は四十歳に達して、始めて眞に「詩」の内奥的な悲しさを知り、同時にまたそのひそやかな嬉しさを知る。四十を越して尚詩心(ポエジイ)を失はない人こそ、老いて恋をしたゲーテと共に、眞の意味での生れた詩人なのである。

萩原朔太郎(1886-1942)
『生理』1934(昭和9)年5月号

広告を非表示にする

朔太郎の蔵書 その1

松居眞玄(松葉) 『亡國星』
  春陽堂 1900(明治33)年9月13日発行
  ※「この本もちぬし 萩原朔太郎
   朔太郎は1900年4月、(旧制)前橋中学入学。

幸田成行, 堀内文磨 『雪粉々』
  春陽堂 1901(明治34)年1月17日発行
  ※署名「萩原朔太郎
   幸田成行は幸田露伴の本名。

寒川鼠骨(陽光) 『寫生文 作法及其文例 』
  内外出版協会 1903(明治36)年6月15日 (5月10日初版)
  ※表紙に「はぎわらみさを」、裏見返しに「持ち主 萩原朔太郎
   朔太郎は(旧制)前橋中学4年
   このころ級友有志らと回覧雑誌『野守』を出す。

フランク・パレツト著 涙香小史譯 『山と水:椿説 (前編)』
  扶桑堂 1907(明治40)年1月2日発行
  ※印「萩原蔵書」
   涙香小史は黒岩涙香(周六)
   国立国会図書館の収蔵は後編のみのようだ
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/876674/1

高濱清(虚子)他 『蕪村句集講義 春之部』
  俳書堂 1907(明治40)年4月1日第6版
  (初版1900年9月 ほとゝぎす發行所)
  (鳴雪、子規、碧梧桐、虚子、青々等)
  ※「咲二」
   朔太郎は1907(明治40)年9月第五高等学校入学

薄田泣菫 『落ち葉』
  獅子吼書房 1908(明治41)年2月20日初版

島村苳三(盛助) 『貝殻』現代文藝叢書 ; 第13編
  春陽堂 1912(明治45)年7月13日初版

萬葉集 上編』 (袖珍文庫 ; 第13編)
  集文館 1913(大正2)年10月15日第10版
   (1910年9月25日初版 )

高山樗牛著 ; 姉崎正治(嘲風)編 『文は人なり : 樗牛文篇』
  博文館 1914(大正3)年11月15日第33版
  (1912(明治45)年1月3日初版)

ドストエフスキー三浦関造訳) 『カラマゾフの兄弟 第一巻』
  金尾文淵堂 1914(大正3)10.3
ドストエフスキー三浦関造訳) 『カラマゾフの兄弟 第二巻』
  金尾文淵堂 1914(大正3)10.18

ドストイェフスキイ(森田草平訳) 『悪霊 全』
  國民文庫刊行會 1915(大正4) 7.18

ダスタエーフスキイ(中村白葉訳) 『罪と罰』(上下巻)
  新潮社 1916(大正5) 6.20

トストエーフスキイ(米川正夫訳) 『カラマーゾフの兄弟上巻』
  新潮社1917(大正6) 6.29

ドストイェフスキイ(内田魯庵訳) 『罪と罰
 (ドストイェフスキイ全集第5巻)
  ドフトエフスキー全集刊行会 1926(大正15) 7.20

フリイドリッヒ・ニイチェ著(生田長江譯)
『人間的な餘りに人間的な (上) 』 (ニイチエ全集第1編)

新潮社 1921(大正10)年7月30日第5版 (1916年10月初版)

『世界文学全集 第30巻』
新潮社1928(昭和3)年6月20日初版
 デュマ・フィス著(高橋邦太郎訳) 「椿姫」
 ドオデエ著(武林無想庵訳) 「サフオ」
 ダンヌンツィオ著(生田長江訳) 「死の勝利」

土井晩翠 『晩翠詩抄』
岩波文庫 1933(昭和8)年8月25日第6刷
 (1930年6月10日初版)

※ 表題紙に「萩原詩宗 恵存 1934、6月 著者」とあり

広告を非表示にする

 

萩原朔太郎研究会の設立

 「朔太郎研究会」設立の議は一九六〇年前橋における「朔太郎祭」のとき地元側の声として発し、昨一九六三年「朔太郎忌」行事を機としてこれが具体化して、いちおう「朔太郎研究会」準備会として発足した。その目標は本年の「朔太郎忌」までにはこの会を正式に設立しようということであった。(中略)
 準備会は当初の目標の通り、本年の「朔太郎忌」記念行事を期し、準備活動を発展的に終結して、この「萩原朔太郎研究会」を設立しようとするものである。(後略)
   一九六四年五月十日
萩原朔太郎研究会会報』第1号 1964年8月1日発行

萩原朔太郎研究会
1964(昭和39)年5月10日設立
会長 伊藤信吉
常任幹事(東京) 那珂太郎
常任幹事(前橋) 渋谷国忠
特別会員
伊藤信吉 伊藤整 草野心平 蔵原伸二郎 斎藤総彦 阪本越郎 笹沢美明 神保光太郎 高橋元吉 田中克己 中野重治 西脇順三郎 萩原葉子

福永武彦 藤原定 村野四郎 結城昌治

発会当初の会員は83名。
慶光院芙沙子、豊田勇、久保忠夫などの他、谷沢永一の名もみえる。


 斎藤総彦は朔太郎が設立した上毛マンドリン倶楽部のメンバーで、1925(大正14)年2月の上京後、マンドリン倶楽部の事務の全権を委任する旨の手紙が会報第1号で紹介されている。
 詩人阪本越郎(1906-1969)は、永井荷風の従弟で高見順の異母兄としても知られるが、詩誌『四季』でのつきあいがあったようである。

萩原さんにはたいへんお世話になった。萩原さんと室生さんは『四季』の顧問格で、よく銀座の小さな料亭で編集の会合をした時一緒になった。終わると萩原さんが先頭で銀座の角のキリンビールビヤホールへ寄るのが常式だった。私は萩原さんを尊敬していたが、詩風が違うので、時々議論を吹っかけ、酒の上なので、或る時はケンカしそうになって三好さんに止められたこともあった。しかし萩原さんこそ真に詩人らしい詩人だと思っていた。……

( 阪本越郎 1906-1969 )
(1965年5月5日朔太郎忌での発言要旨)
萩原朔太郎研究会会報』第4号 1965年6月25日発行

 推理小説作家結城昌治の名があるのが異質な感じがするが、結城昌治は朔太郎の詩を愛読し、詩の習作をしていた頃もあったと朔太郎忌で思い出を語っている。『月に吠える』の中の詩「天上縊死」をタイトルにした短編も書いている。
 谷沢永一は朔太郎研究会発会当時は、関西大学文学部助教授。渋谷国忠館長の前橋市立図書館編で発会の年の1964年6月1日に『萩原朔太郎書誌』を発行しているが、会報2号(1964.11.15)の「資料センターからの御礼とお願い」によれば、書誌の増補または訂正について御教示を頂いた諸氏のなかに谷沢永一の名前があり、また「貴重資料の御寄贈がありました」と報告されている。